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【2025/04/30 14:25 】 |
ドン・ジャーディン
ドン・ジャーディン(Don Jardine、1940年3月24日 - 2006年12月16日)は、カナダ・ニューブランズウィック州出身のプロレスラー。現役選手時代は主に覆面レスラーとして、ザ・スポイラー(The Spoiler)またはスーパー・デストロイヤー(Super Destroyer)のリングネームで活躍した。
巨体ながらトップロープの上を歩くバランス感覚の持ち主であり、WWEのジ・アンダーテイカーが見せる「オールド・スクール」のオリジネーターとしても知られる。生年は1935年ともいわれる[1]。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

サーカスなどに出場するカーニバル・レスラーとして1950年代半ばにデビュー[1]。1960年代は素顔で活動し、ルー・テーズやジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。日本には1963年7月に本名のドン・ジャーディン名義で力道山時代の日本プロレスに初来日。1965年9月にはザ・ブッチャー(The Bucher)のリングネームで再来日し、ジャイアント馬場と引き分けている(1969年の来日では馬場のインターナショナル・ヘビー級王座にも挑戦)。
1967年、フリッツ・フォン・エリックのアドバイスでテキサス州ダラス地区でマスクマンのザ・スポイラーに変身[2]。以降、1980年代後半までダラスのWCCW(World Class Championship Wrestling)を本拠地とした(1984年にWCCWでデビューしたジ・アンダーテイカーことマーク・キャラウェイはジャーディンのコーチを受けており、ロープ歩き「オールド・スクール」を直々に伝授された。なお、キャラウェイも若手時代はマスクマンのザ・パニッシャーとしてWCCWのリングに上がっていた)。
1972年7月29日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでペドロ・モラレスのWWWF世界ヘビー級王座にも挑戦しているが、当時のMSGは覆面レスラーの出場が禁止されており、素顔で試合を行った。なお、同年12月18日にミル・マスカラスが覆面レスラーとして史上初のMSG登場を果たした際、ジャーディンはその対戦相手を務めている(ジャーディン本人はこの時も素顔だった)[3]。
1973年よりスーパー・デストロイヤーのリングネームでノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦。以降もスーパー・デストロイヤーとザ・スポイラーのリングネームを使い分け、トップクラスのヒールとして南部のNWA傘下団体やAWAなど全米のメジャーテリトリーを転戦。ダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエル、アンドレ・ザ・ジャイアントらベビーフェイスのトップスターと各地で対戦し、ジャック・ブリスコやハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。
1976年8月、スーパー・デストロイヤー名義で全日本プロレスに来日。ザ・デストロイヤーの「覆面十番勝負」最終戦の相手を務めた。この試合は日本で初めて行われた覆面剥ぎマッチでもあり、破れたジャーディンは覆面を剥がされ素顔を晒したが、翌年の第5回チャンピオン・カーニバル(1977年大会)には再び覆面を被って参加している。
同時期、ジャーディンと同サイズの大型マスクマンとしてマスクド・スーパースターが台頭していた。スーパースターは後年のインタビューで自分が覆面レスラーになった経緯を、1976年にジャーディン(スーパー・デストロイヤー)がミッドアトランティック地区を離脱した際、彼に代わるマスクマンのヒールが必要となったため、同地区のブッカーのジョージ・スコットに要請されたことがきっかけだったとコメントしている[4]。
1980年2月にはスーパー・デストロイヤーとして新日本プロレスに初参戦。アイアン・シークとのコンビで坂口征二&長州力の北米タッグ王座に挑戦し、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦している。これが最後の来日となった。
以降はスコット・アーウィンが南部地区でスーパー・デストロイヤーを名乗るようになったこともあり、リングネームをザ・スポイラーに定着させた。アメリカでは一貫してヒールのポジションだったが、1982年頃に本拠地WCCWで一時的にベビーフェイスに転向している。
1984年上期はジョージアのGCWを主戦場に、ポール・エラリング率いる悪の軍団「リージョン・オブ・ドゥーム」に加入、大ブレイク前のロード・ウォリアーズやジェイク・ロバーツ、テッド・デビアスらと共闘した[5]。同年下期からはビンス・マクマホン・ジュニア政権下で新体制となったWWFに登場[6]。1972年のWWWF参戦時は素顔だったが、この時は覆面レスラーのザ・スポイラーとしてMSG出場を果たしている。
1990年代前半にはフロリダでプロモート業も行っていたが1994年にプロレス界から引退。引退後はカナダのアルバータ州で洗車ビジネスの管理業務を行う一方[2]、ボランティア活動にも従事し、幼児に読み書きを教えていたという[7]。また、粘土彫刻家としても活動していた[7]。2006年12月16日、白血病のため死去[7]。66歳没。
得意技 [編集]

ブレーン・クロー
ダイビング・ニー・ドロップ
ダイビング・エルボー・バット
右掌に付けた黒い革手袋によるクロー攻撃の他、トップロープからのエルボーやニー攻撃を得意としていた。ロープワークの巧みな選手として知られ、"元祖"オールド・スクールはジャーディンだからこそのムーブともいえる[1]。また、覆面レスラーとしてのキャラクターを活かすため、感情を表に現さない徹底してクールな試合ぶりも特徴的であり、こうしたスタイルも弟子のマーク・キャラウェイに受け継がれている。
獲得タイトル [編集]

セントラル・ステーツ(カンザス、ミズーリ)
NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
CWF(フロリダ)
NWA南部ヘビー級王座:1回
NWAフロリダ・ヘビー級王座:3回
NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ザ・スポイラー2号)
GCW(ジョージア)
NWAジョージア・ヘビー級王座:3回
NWAナショナル・ヘビー級王座:2回
WCCW(ダラス)
NWAアメリカン・ヘビー級王座:4回
NWAアメリカン・タッグ王座:6回(w / ゲーリー・ハート×3、スマッシャー・スローン×1、マーク・ルーイン×2)
NWAテキサス・ヘビー級王座:2回
NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / マーク・ルーイン)
NWAブラスナックル王座:1回
WCCW TV王座:1回
NWAトライステート(オクラホマ)
NWA北米ヘビー級王座:2回
NWA USタッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
NWAオールスター・レスリング(バンクーバー)
NWAカナディアン・タッグ王座:1回(w / ダッチ・サベージ)
NWA世界タッグ王座:2回(w / ダッチ・サベージ)
WCW(オーストラリア)
IWA世界ヘビー級王座:1回
IWA世界タッグ王座:1回(w / マリオ・ミラノ×1、ワルドー・フォン・エリック×2)
 etc.
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【2011/01/06 20:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ノーベル・オースチン
ノーベル・オースチン(Norvell Austin)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州ペンサコーラ出身のアフリカ系アメリカ人。
1970年代から1980年代にかけて、フロリダ、アラバマ、テネシー、ジョージアなど南部を主戦場に、主にタッグ・プレイヤーとして活動した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

デビュー後の1970年代初頭はスプートニク・モンロー(Sputnik Monroe)のパートナーとしてヒールのポジションで活動、1972年2月にはモンローに帯同して日本プロレスに初来日している。帰国後もモンローと共に南部エリアを転戦し、エディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区ではジャックとジェリーのブリスコ・ブラザーズとフロリダ・タッグ王座を争った[1]。なお、モンローとのコンビは当時では珍しい白人と黒人によるヒールの混成タッグチームとして、"Black is Beautiful, White is Wonderful" をキャッチフレーズにしていた[2]。
モンローとのチーム解散後、アラバマのガルフ・コースト地区を経て1975年よりテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)に参戦。ベビーフェイスに転じてパット・バレットやビル・ダンディーともタッグを組んだ。ジム・バーネットの運営するNWAジョージア地区にも遠征し、1979年4月に黒人レスラーの先輩ルーファス・ジョーンズと組んでイワン・コロフ&オレイ・アンダーソンからジョージア・タッグ王座を奪取している[3]。
1980年9月にはCWAとの提携ルートで国際プロレスに来日。以降もベビーフェイスのポジションでアラバマのSECW(サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)を主戦場としたが、1981年に再びヒールターンし、デニス・コンドリー&ランディ・ローズとミッドナイト・エクスプレス(The Midnight Express)を結成[4]、1980年代に一世を風靡した歴史的タッグチーム・ユニットのオリジナル・メンバーとなった。1982年からは古巣のCWAにも登場し、コンドリーとのコンビでAWA南部タッグ王座を獲得[5]。スティーブ・カーンとスタン・レーンのファビュラス・ワンズなどのチームと抗争を展開した[6]。
オリジナル版ミッドナイト・エクスプレスは1983年末に一旦解散、オースチンはCWAに継続参戦し、1984年よりココ・ウェアとの黒人タッグチーム、プリティ・ヤング・シングス(Pretty Young Things)を結成。PYTエクスプレス(The PYT Express)とも呼ばれ、トミー・リッチとエディ・ギルバートのニュー・ファビュラス・ワンズ、イライジャ・アキームとカリーム・モハメッドのザンブイ・エクスプレスなどとAWA南部タッグ王座を争った[5]。テキサス州ダラスのWCCWやNWAフロリダ地区にも進出し、フロリダではパーシー・プリングル3世をマネージャーに迎え、1985年にジェイ・ヤングブラッドとマーク・ヤングブラッドの兄弟チームからUSタッグ王座を奪取している[7]。
PYT解散後はアラバマのSECWに戻り、フェイスターンしてブリックハウス・ブラウンと新コンビを結成。1986年1月にはエイドリアン・ストリートを破りNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を獲得した[8]。
1980年代末の引退後は、2004年9月にアラバマのコンチネンタル・レスリングにレジェンドとして特別出場し、ランディ・ローズとのオリジナル・ミッドナイト・エクスプレスを再結成した[4]。
得意技 [編集]

ダイビング・ヘッドバット
ムーンサルト・プレス
獲得タイトル [編集]

チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / スプートニク・モンロー)
NWA USタッグ王座:1回(w / ココ・ウェア)
NWAガルフ・コースト / サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回
NWAサウスイースタン・タッグ王座:10回(w / ジミー・ゴールデン、ポール・オーンドーフ、ブラッド・アームストロング、デニス・コンドリー&ランディ・ローズ×6、ブリックハウス・ブラウン)
NWAサウスイースタンUSジュニアヘビー級王座:2回
NWA USタッグ王座(ガルフ・コースト版):1回(w / ロケット・モンロー)
NWAミッドアメリカ / コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
NWA南部タッグ王座(ミッドアメリカ版):2回(w / スプートニク・モンロー、パット・バレット)
AWA南部タッグ王座:6回(w / ビル・ダンディー、デニス・コンドリー×2、ココ・ウェア×3)
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ルーファス・ジョーンズ)
【2011/01/05 02:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ネイル・グアイ
ネイル・グアイ(Neil Guay、1942年7月21日 - )は、カナダ・ケベック州出身の元プロレスラー。現役選手時代はザ・ハングマン(The Hangman)などのリングネームで知られ、覆面レスラーとしても活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

元警察官で、現職時代は柔道の達人であったという[1]。退職後[2]、地元ケベック州のモントリオール地区でプロレスラーとしてデビュー。当時はル・ボレー(Le Bourreau)(=死刑執行人)というリングネームだった。1974年末に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー(Super Destroyer)に変身し、翌1975年4月に新日本プロレスの『第2回ワールド・リーグ戦』に初来日。公式戦では11勝3敗1分けという好成績を残した。
リーグ戦終了直後の韓国遠征にも参加し、5月23日に大木金太郎のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。試合後に覆面を剥がされ素顔を曝している。そこで今度はカルガリー地区でタワーリング・インフェルノ(The Towering Inferno)[3]なるマスクマンに再変身し、ドン・レオ・ジョナサンらと抗争。1976年4月の『第3回ワールド・リーグ戦』に再び来襲するが、前年のような活躍は果たせなかった。
帰国後、黒覆面のザ・ハングマン(The Hangman)を名乗って太平洋岸のNWAロサンゼルス地区に出現。1976年9月にチャボ・ゲレロを破ってアメリカス・ヘビー級王座を獲得し[4]、10月にはロディ・パイパーと組んでアメリカス・タッグ王座も奪取[5]。ミル・マスカラスとのマスクマン対決も行っている。1977年には素顔のネイル・グアイ名義でテキサス州のアマリロ地区にも遠征し、ドリー・ファンク・ジュニアとも対戦した。
以降もLAを主戦場に、1977年5月からはベビーフェイスに転向してキース・フランクス(後のアドリアン・アドニス)と熾烈な抗争を展開。一時はフランクスに覆面を剥がされたが、報復として彼の髪の毛をカットしている[6]。LAではプロフェッサー・タナカやタンク・パットンともアメリカス王座を巡って死闘を繰り広げた。同年8月にはザ・ハングマン名義で新日本の『闘魂シリーズ』に通算3度目の来日。スタン・ハンセン、ブラックジャック・マリガンとの超大型外人トリオの一角として、ハンセンと組んで坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座にも挑戦した。なお、同シリーズにはLAでの盟友ロディ・パイパーも初来日を果たしている。
その後はジャン・ルイ(Jean Louie)のリングネームで素顔となってカナダに戻り、1979年5月にバンクーバーでNWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座を獲得[7]。同年末よりAWAに転戦し、またもや覆面レスラーに変身。スーパー・デストロイヤー・マークII(後のサージェント・スローター)のパートナー、スーパー・デストロイヤー・マークIIIを名乗り、大型マスクマン・チームを結成する。後に仲間割れを起こし、マークII(スローター)はボビー・ヒーナン、マークIII(グアイ)はロード・アル・ヘイズをマネージャーに覆面レスラー同士の抗争も行った。
1980年下期からは覆面を脱いで素顔のザ・ハングマンとしてニューヨークのWWFに進出。フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、ボブ・バックランド、ペドロ・モラレス、ブルーノ・サンマルチノ、リック・マーテルらと対戦[8][9]、マディソン・スクエア・ガーデンのリングにも登場した。同年8月9日、アントニオ猪木も参加したシェイ・スタジアムのビッグ・イベント "Showdown at Shea" にも出場し、同じケベック人のレネ・グレイを相手に勝利を飾っている[10]。11月には新日本の『第1回MSGタッグ・リーグ戦』に、アンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとして通算4度目の、そして素顔では初の来日を果たす。決勝戦には進めなかったものの、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン組とのスーパーヘビー級タッグ対決は話題を呼んだ。
その後は地元のモントリオールに定着し、クレージー・セーラー・ホワイトとのタッグなどで活動していたが、1986年に引退。1990年代初頭に交通事故で重傷を負って以来、松葉杖歩行を余儀なくされているという[1]。
得意技 [編集]

ハングマンズ・ホールド(相手と背中合わせになった状態で後ろから手を回して相手の首を掴み、そのままカナディアン・バックブリーカーのような体勢で担ぎ上げる怪力技。マッドドッグ・バションの実弟ブッチャー・バションやデビッド・シュルツなども得意としていた)
ネック・ハンギング・ツリー
カナディアン・バックブリーカー
ペンデュラム・バックブリーカー
ベアハッグ
獲得タイトル [編集]

NWAアメリカス・ヘビー級王座:2回 [4]
NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ロディ・パイパー)[5]
NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座:1回 [7]
【2011/01/05 02:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ニック・ボックウィンクル
ニック・ボックウィンクル(Nick Bockwinkel)のリングネームで知られるウォーレン・ニコラス・ボックウィンクル(Warren Nicolas Bockwinkel、1934年12月6日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミネソタ州セントポール出身。生年は、1936年や1938年とされる場合もある。
目次 [非表示]
1 来歴
2 評価
3 得意技
4 獲得タイトル
5 エピソード
6 脚注
7 外部リンク
来歴 [編集]

父のウォーレン・ボックウィンクルは1930年代から1950年代にかけて活躍した名ヒールであり、少年時代のニックは父の巡業に同行し、バディ・ロジャースなどの今では伝説となったレスラーたちの試合を間近で見る機会に恵まれた。この経験が後のレスラー人生で大きな財産となった。
15歳のとき、ルー・テーズ相手にデビュー。陸軍やオクラホマ大学に在籍しながらプロレスを続け、28歳でフルタイムのプロレスラーとなり、ハワイ、カリフォルニア州などのアメリカ各地を転戦。ローカル・タイトルを数多く獲得している。各地を転戦していく生活はニックの希望していたことであり、のちに「プロレスラーはスーツケースひとつで旅ができる仕事」と述懐している。
天才と言われるほどの実力派レスラーだったがタイトル挑戦に恵まれず、30代中頃からミネソタ州ミネアポリスの団体AWAに定着。ボビー・ヒーナンをマネージャーに付けレイ・スティーブンスとのタッグでAWA世界タッグ王座を獲得した後、1975年11月18日、ミネソタ州セントポールにおいてバーン・ガニアを下し、AWA世界ヘビー級王座を獲得。以後1987年5月2日にカート・ヘニングに敗れタイトル戦線から退くまでの13年間で同王座を合計4回獲得し延べ7年以上保持、北部の帝王として君臨した。1979年3月25日には、AWA世界王者として当時のWWF王者ボブ・バックランドとダブルタイトルマッチも行っている。
日本にも日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレスへの参戦で度々登場。1984年2月23日には蔵前国技館でジャンボ鶴田に敗れ、AWA世界ヘビー級王座を明け渡した。全日本の年末恒例世界最強タッグ決定リーグ戦では1978年から1985年にかけてブラックジャック・ランザやジム・ブランゼルなどをパートナーに4回出場、1984年にはハーリー・レイスとの「夢の世界王者コンビ」も実現させた。
1987年8月の全日本プロレスへの参戦を最後にリングを降り、WWF(現・WWE)のロード・エージェントやWCWのコミッショナーなどを務めた。また、UWFインターナショナルのリングでビル・ロビンソンとエキシビション・マッチを行ったこともある。
近年はラスベガスに在住。2006年1月、ZERO1-MAXにおける大谷晋二郎対スティーブ・コリノのAWA世界ヘビー級選手権試合の立会人として久々の来日を果たした。このときはただ試合を見守るだけでなく、「興奮して」大谷にイス攻撃を見舞うという特別出演もしている。
2007年にはWWE殿堂入りを果たした(プレゼンターはボビー・ヒーナン)。
評価 [編集]

リック・フレアーに先駆け、バディ・ロジャースの流れを汲むヒールの「ダーティー・チャンプ」のスタイルを貫いた。劣勢になるとわざと凶器攻撃を見舞ったり、セコンドを乱入させて反則負けを選ぶことがほとんどだった(反則負けでは王座は移動しない)。1980年代前半にAWAで頭角を現していたハルク・ホーガンを相手にしても、この戦術で寄せ付けなかった。日本でのジャンボ鶴田との防衛戦も多くはこのパターンで逃げ切ったため「反則でも王座移動なら鶴田絶対有利」という声も日本のファンやマスコミにはあったが(王座転落した試合の実況など)、1984年2月の鶴田との連戦では打って変わって本格派の実力を示し、それまでの「単なるダーティー・チャンプ」という見方が過小評価であることを示した(もっとも、ファンに王者の実力を過小評価させ「次にやれば地元のヒ-ローが勝つ」と思わせるのもダーティー・チャンプの在り方である)。
トリプルHは雑誌のインタビューで彼のスタイルをモチーフにしていることを公言していた。ヒールのお手本的存在としても語られることの多いレスラーである。
非常に理詰めのレスリングをし、投げ技は上手いがほとんど使わなかった。ジャイアント馬場はニックのことを「ダーティ王者と言われながらも根はオーソドックスなテクニシャン」と語っている[1]。
「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る(相手のスタイルに合わせてレスリングをする、つまり相手の持ち味を十分に引き出すのが私の役目、という意)」というニックの言葉は、プロレスの本質を余すところなく表現した名言とされている(もともとは父親ウォーレンから教えられた言葉である)。
得意技 [編集]

足4の字固め
インディアン・デスロック
コブラツイスト
パイルドライバー
スリーパーホールド
コブラ・クラッチ
フロント・ネックチャンスリー・ドロップ
獲得タイトル [編集]

AWA世界ヘビー級王座
AWA世界タッグ王座(w / レイ・スティーブンス)
WWAインターナショナル・TVタッグ王座(w / ロード・ブレアース、エドワード・カーペンティア)
AWA南部ヘビー級王座
その他多数
エピソード [編集]

子供時代、ルー・テーズにお守りをしてもらったことが自慢だった。父ウォーレンとテーズはジョー・トラゴスのジムで一緒に練習した親友同士だった。
入場時に常に右手に持っていた白タオルは、バディ・ロジャースから受け継がれ、後にカート・ヘニングが受け継いだ。
1970年9月、日本プロレスの第1回NWAタッグリーグ戦にジョニー・クインと組んで参戦。アントニオ猪木&星野勘太郎との決勝戦は延長戦となり、72分の死闘を展開した。そのため、AWA世界ヘビー級王座防衛戦のため全日本プロレスに来日した際のインタビューで、「闘いたい相手は?」と聞かれ「イノキ&ホシノ」と答え、記者を困惑させる一幕もあった。なお、後にグレーテスト18クラブなどで新日本プロレスとの関係が築かれた際に猪木との対戦を表明したが、猪木の拒否(「現役選手じゃない」との理由)により実現しなかった。
カート・ヘニングとは1985年世界最強タッグ決定リーグ戦でタッグを組んで来日しているが、奇しくも2007年、揃ってWWE殿堂入りしている。
脚注 [編集]

^ ジャイアント馬場著「王道十六文」
【2011/01/05 02:07 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ジム・スティール
ジム・スティール(Jim Steele、1967年5月4日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州プラムハーバー出身。
来歴 [編集]

デビュー戦は1991年10月のフロリダ州タンパ。初来日は1994年11月の全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦。当初は本名のジム・スティールで参戦していたが、1995年6月からは覆面レスラーとなり、リングネームもザ・ラクロスに変え、パトリオット率いるUS空軍軍団の一員となった。さらに小橋健太、ジョニー・エース、ザ・パトリオットがGETを結成したときにはスティーブ・ウィリアムス、ゲーリー・オブライトとともにTOPを結成して対抗。かつてタッグを組んでいたザ・パトリオットと敵対することとなった。1997年の世界最強タッグ決定リーグ戦では再びリングネームを変更。セガのプロレスゲーム「全日本プロレス FEATURING VIRTUA」の発売にあたり、同ゲームにバーチャファイターからゲスト参戦した架空のレスラーウルフ・ホークフィールドに変身、ジョニー・スミスとタッグを組んで参戦する。1994年大会では10組中8位だったが、1997年大会ではハンセン組に勝利し、三沢組とウィリアムス組に引き分ける健闘を見せ、10組中5位となる。さらに1998年1月9日、スミスとのタッグでアジアタッグ王座を奪取。これが日本での初戴冠となった。2000年の世界最強タッグ決定リーグ戦では再びリングネームをジム・スティールに戻し、マイク・バートンとのタッグで参加。勝ち点10を獲得し、首位の4チームに入るが、優勝決定トーナメントの初戦で川田利明&渕正信組に敗れ、初優勝はならなかった。2001年に新日本プロレスに初参戦。マイク・バートンとともにG1タッグリーグに参加し、準優勝となる。2002年11月4日からはマイク・バートンとともに新日本プロレスに主戦場を変更。IWGPタッグ王座にも挑戦する。2004年にはラブマシンズの一員として覆面レスラーのラブ・マシン・スティールとなり、久々の全日本プロレスマットへの復帰となった。
得意技 [編集]

ターボドロップ
ケブラドーラ・コン・ヒーロの要領で抱え上げた後、そのまま落とすのではなく肩の上に抱え上げ、自らも旋回しつつ相手を放り投げる。
ターボドロップII
サイドスープレックスをかける体勢から回転しながら肩の上まで持ち上げ、前方に放り投げる。かけられた相手はスティールの目線ほどの高さで水平方向に回転しながらマットに叩きつけられる、非常に見た目の派手な技。
ダイビング・ボディ・プレス
ターボドロップI・IIと並んでフィニッシュに多用されることが多い。フロッグスプラッシュやマッドスプラッシュと違い、空中で体を縮めることなくそのまま放たれるが、飛距離が物凄く長いのが特徴。
タイトル歴 [編集]

全日本プロレス
アジアタッグ王座
第63代王者、2回防衛、パートナーはジョニー・スミス
【2011/01/03 23:04 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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