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ゲーリー・グッドリッジ(Gary Goodridge、男性、1966年1月17日 - )は、トリニダード・トバゴ出身、現カナダ国籍の総合格闘家、キックボクサー。
目次 [非表示] 1 概要 2 来歴 2.1 総合格闘技 2.2 K-1 3 戦績 3.1 キックボクシング 3.2 総合格闘技 4 主な獲得タイトル 5 人物 6 出演作品 7 脚注 8 関連項目 9 外部リンク 概要 [編集] アームレスリング世界一という怪力の持ち主で、完全に極まったアームロックを極められた腕のみで外してしまったこともある。左腕に刻まれた“剛力”のタトゥーの通りである。その太い腕から繰り出されるパンチと、常にアグレッシブに前へ出続けるファイトスタイルを有し、勝っても負けても派手なパフォーマンスを披露する。また、見た目とは裏腹な人の良さから、他の格闘家から尊敬されている。 UFC、PRIDEなどの総合格闘技を主戦場としていたが、2003年12月31日の『PRIDE 男祭り 2003』以降はPRIDEのリングを去り、立ち技格闘技K-1を主戦場としている。どんなルールでも会場を沸かすことのできるオールマイティーファイターである。 PRIDE参戦当時のニックネームは「PRIDEの番人」。これはグッドリッジが、PRIDE初参戦の選手と数多く対戦したことに起因する。勝敗にかかわらず、初参戦の選手に厚い壁となって立ちはだかった。 2008年12月15日、カナダオンタリオ州トロント郊外に自らのジム「Fighting University」をオープンさせた[1]。 来歴 [編集] 総合格闘技 [編集] 1997年10月11日、日本の総合格闘技イベントPRIDEの旗揚げ戦となった『PRIDE.1』で、サンボ選手権王者のオレッグ・タクタロフをその豪腕で殴り倒し、そのままグラウンドパンチの連打で戦闘不能に追い込みレフェリーストップ勝利。 そのアグレッシブなファイトスタイルを買われ、『PRIDE.2』でマルコ・ファス、『PRIDE.3』でアミール、『PRIDE.4』でイゴール・ボブチャンチンと連続で出場。その後も『PRIDE.16』までほぼ連続で参戦した。 2000年に開催した『PRIDE GRANDPRIX 2000』では、開幕戦で大刀光にギロチンチョークで一本勝ちするも、決勝戦では因縁の相手イゴール・ボブチャンチンにKO負けを喫してしまう。その後リコ・ロドリゲス、ギルバート・アイブルに連敗するも、谷津嘉章、ヴァレンタイン・オーフレイムに連勝する。 しかし、2001年7月29日の『PRIDE.15』では、PRIDE初参戦のアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに三角絞めを極められ、タップアウト負け。 2003年に開催した 『PRIDE GRANDPRIX 2003』では開幕戦、決勝戦ともに第1試合のワンマッチに出場。8月10日の開幕戦ではエメリヤーエンコ・ヒョードルにTKO負け。しかし11月9日の決勝戦ではPRIDE初参戦のダン・ボビッシュにKO勝ちし、番人の面目躍如を果たした。 2003年12月31日の『PRIDE 男祭り 2003』で、ドン・フライと対戦。1R27秒右ハイキックでKO勝ち。試合前に勝敗にかかわらず、体力の限界を理由に格闘家からの引退を表明しており、これがPRIDEでの引退試合となった。 2004年4月30日に復帰し、K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGASに参戦。以後、K-1を主戦場にしている。 2008年3月30日、『The Khan』でチェ・ムベと対戦、2Rにカウンターの右フックからダウン後、パウンドでTKO負け。 2008年7月19日、Affliction旗揚げ戦Affliction: Bannedでポール・ブエンテロと対戦し、判定負けを喫した。 2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜でゲガール・ムサシと対戦し、パウンドでTKO負け。 K-1 [編集] 1999年からK-1に参戦し、武蔵、佐竹雅昭、ジェロム・レ・バンナ、グラウベ・フェイトーザらと対戦した。 K-1歴代王者のピーター・アーツやマーク・ハントとも互角に渡り合い、マイク・ベルナルドやシリル・アビディ、カーター・ウィリアムスなど多くのK-1ファイターに勝つなど、期待以上の活躍を見せる。 2005年7月29日、『K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII』で開催されたHAWAII GPでは、カーター・ウィリアムスや藤本祐介らを全試合KOで破り優勝。 2005年9月23日、『K-1 WORLD GP 2005 in OSAKA 開幕戦』では、再びジェロム・レ・バンナと激突。リベンジを狙ったが、ローキックからパンチ連打を浴びて3回目のダウンを喫しKO負け。 2005年11月19日、『K-1 WORLD GP 2005 inTOKYO 決勝戦』のリザーブファイトに選ばれるも、グラウベ・フェイトーザに判定負け。 戦績 [編集] キックボクシング [編集] キックボクシング 戦績 34試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合 12勝 11 1 0 2 0 20敗 12 7 1 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 × カタリン・モロサヌ 2R終了時 TKO(タオル投入) Local Kombat 32 2008年12月12日 × 天田ヒロミ 3R終了 判定0-3 日韓親善国際格闘技大会 GLADIATOR 【K-1ルール】 2008年8月16日 × ルボス・スーダ 3R終了 判定0-3 K-1 Czech 2007 Heaven or Hell 2007年12月15日 △ コンスタンチン・グルチョフ ドロー K-1 Latvia 2007年10月13日 × チェ・ホンマン 1R 1:34 TKO(パンチ連打) K-1 WORLD GP 2007 IN HONG KONG 2007年8月5日 × パトリック・バリー 1R 1:07 TKO(右目のカット) K-1 WORLD GP 2007 in HAWAII 【USA GP 1回戦】 2007年4月28日 × レミー・ボンヤスキー 3R 0:52 KO(左ハイキック) K-1 WORLD GP 2006 in OSAKA 開幕戦 【1回戦】 2006年9月30日 × カーター・ウィリアムス 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGAS II 【世界最終予選 1回戦】 2006年8月12日 × ピーター・アーツ 3R終了 判定0-3 K-1 REVENGE 2006 K-1 WORLD GP 2006 in SAPPORO 〜アンディ・フグ七回忌追悼イベント〜 2006年7月30日 × ハリッド"ディ・ファウスト" 3R 1:00 KO(右フック) K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGAS 【USA GP 決勝】 2006年4月29日 ○ スコット・ライティ 1R 0:34 TKO(2ノックダウン) K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGAS 【USA GP 準決勝】 2006年4月29日 ○ 謙吾 1R 0:40 KO(右フック) K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGAS 【USA GP 1回戦】 2006年4月29日 × アレクセイ・イグナショフ 3R終了 判定0-3 K-1 Hungary 2006 2006年2月25日 × グラウベ・フェイトーザ 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2005 in TOKYO 決勝戦 【リザーブマッチ】 2005年11月19日 × ジェロム・レ・バンナ 1R 2:13 KO(3ノックダウン:パンチ連打) K-1 WORLD GP 2005 in OSAKA 開幕戦 【1回戦】 2005年9月23日 ○ 藤本祐介 3R 1:19 TKO(左フック) K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII 【HAWAII GP 決勝】 2005年7月29日 ○ カーター・ウィリアムス 1R 1:15 KO(右フック) K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII 【HAWAII GP 準決勝】 2005年7月29日 ○ ウェスリィ"キャベツ"コレイラ 2R 2:43 TKO(右ローキック) K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII 【HAWAII GP 1回戦】 2005年7月29日 × グラウベ・フェイトーザ 1R 2:40 TKO(左ハイキック) K-1 WORLD GP 2005 in LAS VEGAS 【USA GP 決勝】 2005年4月30日 ○ スコット・ライティ 1R 2:55 TKO(右ローキック) K-1 WORLD GP 2005 in LAS VEGAS 【USA GP 準決勝】 2005年4月30日 ○ ショーン・オヘア 1R 0:55 TKO(右アッパー) K-1 WORLD GP 2005 in LAS VEGAS 【USA GP 1回戦】 2005年4月30日 × レイ・セフォー 1R 0:24 TKO(レフェリーストップ) K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!! 【K-1ルール】 2004年12月31日 ○ シリル・アビディ 1R 3:00 KO(右フック) K-1 WORLD GP 2004 決勝戦 【リザーブマッチ】 2004年12月4日 ○ サミー・アティア 1R 2:49 KO(左ボディブロー) 新日本キックボクシング協会「TITANS 1st」 2004年11月6日 × マイティ・モー 1R 2:58 KO(3ノックダウン:右フック) K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦 【1回戦】 2004年9月25日 ○ デューウィー・クーパー 3R終了 判定2-1 K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGAS 2004年8月7日 × ピーター・アーツ 3R 1:40 KO(右ローキック) K-1 WORLD GP 2004 in NAGOYA 2004年6月6日 ○ TOA 1R 2:43 TKO(右アッパー) K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGAS 【GP開幕戦出場者決定戦】 2004年4月30日 × マーク・ハント 5R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGAS 2003年5月3日 △ 武蔵 5R終了 判定0-1 K-1 BEAST 2003 〜山形初上陸〜 2003年4月6日 × マイク・ベルナルド 1R 2:12 KO(右ストレート) INOKI BOM-BA-YE 2002 2002年12月31日 × ジェロム・レ・バンナ 1R 0:42 KO(右ストレート) K-1 WORLD GP 2002 開幕戦 【1回戦】 2002年10月5日 ○ マイク・ベルナルド 1R 1:38 TKO(レフェリーストップ) K-1 WORLD GP 2002 in LAS VEGAS 2002年8月17日 × 佐竹雅昭 3R 2:47 KO(左ローキック) K-1 SPIRITS '99 1999年8月22日 × 武蔵 1R 2:15 反則(金的攻撃) K-1 REVENGE '99 1999年4月25日 総合格闘技 [編集] 総合格闘技 戦績 45 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合 23 勝 13 9 1 0 1 0 21 敗 9 8 4 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 × ペドロ・ヒーゾ 2R終了 TKO(試合放棄) Washington Combat: Battle of the Legends 2010年5月15日 × ゲガール・ムサシ 1R 1:34 TKO(パウンド) Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 2009年12月31日 × アリスター・オーフレイム 1R 1:47 キムラロック Glory 10 - The Battle of Arnhem 2008年11月9日 × ポール・ブエンテロ 5分3R終了 判定0-3 Affliction: Banned 2008年7月19日 × テロル・ディーズ 5分3R終了 判定0-3 Iroquois - MMA Championships 4 2008年6月21日 × チェ・ムベ 2R TKO(右フック→パウンド) The Khan 2008年3月30日 ○ ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ 1R 3:00 TKO(レフェリーストップ) HERO'S 2007 開幕戦 〜名古屋初上陸〜 2007年3月12日 ○ タダス・リンケビュチス 1R 4:31 TKO HERO'S FIGHTING NETWORK '06 Lithuania Round 2006年11月11日 × ヒース・ヒーリング 2R 1:55 KO(右フック) HERO'S 2006 2006年3月15日 ○ アラン・カラエフ 1R 2:58 ギロチンチョーク HERO'S 2005年3月26日 ○ ザ・プレデター 1R 1:22 KO(左フック) K-1 ROMANEX 2004年5月22日 ○ ドン・フライ 1R 0:27 KO(右ハイキック) PRIDE 男祭り 2003 2003年12月31日 ○ ダン・ボビッシュ 1R 0:18 TKO(スタンドでのパンチ) PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦 【ワンマッチ】 2003年11月9日 × エメリヤーエンコ・ヒョードル 1R 1:09 TKO(パウンド) PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦 【ワンマッチ】 2003年8月10日 ○ ロイド・ヴァン・ダム 1R 3:39 TKO(パウンド) Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立【PRIDEルール】 2002年8月28日 ○ ラバザノフ・アフメッド 3R(10分/5分/5分)終了 判定2-1 PRIDE.21 2002年6月23日 △ エベンゼール・フォンテス・ブラガ 3分5R終了 ドロー INOKI BOM-BA-YE 2001 2001年12月31日 ○ 谷津嘉章 1R 3:05 TKO(タオル投入) PRIDE.16 2001年9月24日 ○ ヤン"ザ・ジャイアント"ノルキヤ 1R 1:11 腕ひしぎ十字固め K-1 ANDY MEMORIAL 2001 〜JAPAN GP 決勝戦〜 【K-1 MMAオフィシャルルール】 2001年8月19日 × アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ 1R 2:37 三角絞め PRIDE.15 2001年7月29日 ○ ヴァレンタイン・オーフレイム 1R 2:39 KO(パウンド) PRIDE.14 2001年5月27日 ○ ボブ・シュライバー 1R 2:32 トゥーホールド 2 Hot 2 Handle - Simply The Best 2001年3月18日 ○ 谷津嘉章 1R 8:58 TKO(スタンドでのパンチ) PRIDE.11 2000年10月31日 × ギルバート・アイブル 1R 0:28 KO(ハイキック) PRIDE.10 2000年8月27日 × リコ・ロドリゲス 10分2R終了 判定 PRIDE.9 2000年6月4日 × イゴール・ボブチャンチン 1R 10:14 TKO(スタンドでのパンチ) PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦 【準々決勝】 2000年5月1日 ○ 大刀光 1R 0:51 ギロチンチョーク PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦 【1回戦】 2000年1月30日 × トム・エリクソン 10分2R終了 判定0-5 PRIDE.8 1999年11月21日 × 小川直也 2R 0:36 V1アームロック PRIDE.6 1999年7月4日 ○ アンドレ・ロバーツ 1R 0:43 TKO UFC 19: Ultimate Young Guns 1999年3月5日 × イゴール・ボブチャンチン 1R 5:58 KO PRIDE.4 1998年10月11日 ○ アミール 1R 7:22 TKO(パウンド) PRIDE.3 1998年6月24日 × マルコ・ファス 1R 9:09 ヒールホールド PRIDE.2 1998年3月15日 ○ オレッグ・タクタロフ 1R 4:57 KO PRIDE.1 1997年10月11日 ○ ペドロ・オタービオ 16:08 タップアウト(マウントパンチ) International Vale Tudo Championship 1 【決勝】 1997年7月6日 ○ キャル・ウォーシャム 8:17 TKO(カット) International Vale Tudo Championship 1 【準決勝】 1997年7月6日 ○ アウグスト・サントス 0:32 フルネルソン International Vale Tudo Championship 1 【1回戦】 1997年7月6日 × ドン・フライ 11:19 TKO Ultimate Ultimate 1996【1回戦】 1996年12月7日 × マーク・コールマン 7:00 ギブアップ UFC 10: The Tournament【準決勝】 1996年7月12日 ○ ジョン・キャンペテーラ 1:27 KO(パウンド) UFC 10: The Tournament【1回戦】 1996年7月12日 × マーク・シュルツ 12:00 TKO(カット) UFC 9: Motor City Madness 1996年5月17日 × ドン・フライ 2:14 TKO(パウンド) UFC 8: David vs. Goliath【決勝】 1996年2月16日 ○ ジェリー・ボーランダー 0:48 TKO(パウンド) UFC 8: David vs. Goliath【準決勝】 1996年2月16日 ○ ポール・ヘレラ 0:13 KO(肘打ち) UFC 8: David vs. Goliath【1回戦】 1996年2月16日 主な獲得タイトル [編集] アマチュアボクシング カナダ王者 UFC 8 準優勝 International Vale Tudo Championship 1 優勝 K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII 優勝 K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGAS 準優勝 人物 [編集] アームレスリングを始める前はウエイトリフティングの選手だった。 K-1では数多くの大会に出場しているが、その多くが欠場者の代役であり、十分な準備期間のないままの出場となってしまっている。しかしそんな中でも白熱した戦いを繰り広げ、会場をおおいに盛り上げている。 地区予選レベルの相手なら試合が始まった途端、一気に間合いを詰め、自慢の豪腕でKOする豪快なパフォーマンスが見られるが、トップファイターが対戦相手だと何もできないままKO負けを喫してしまうことが多い。具体例を挙げると、2005年のジェロム・レ・バンナ戦など。 マイク・ベルナルドをKOした際に、ダウンした彼を踏みつけ腕を高々と上げるという彼を侮辱する行為をしたため、彼との間に確執が生まれる。後に二人は再戦。マイクにノックアウトされた後、同じことをされ、リベンジをされる。その後、お互いきっちりと和解し、ベルナルドのファンサイトにゲーリーの動画メッセージが届いたり、ベルナルドのコーチであるスティーブ・カラコダがゲーリーのセコンドを務めるなど、関係は改善したようである。 試合終了後にリングに上がってくる黒人女性はゲーリーの妹(スージー)である。 PR |
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イム・ジュンス(Lim Jun Soo、男性、1982年7月6日 - )は、韓国出身の総合格闘家、プロレスラー。フリー。プロレスでのリングネームは、イム・ベクホ(林白虎)。
その巨漢に似合わぬスピードで注目されている。 目次 [非表示] 1 来歴 2 戦績 3 獲得タイトル 4 関連項目 5 外部リンク 来歴 [編集] 子供時代よりシルム、柔道などを習い、高校卒業後、韓国のプロレス団体WWA KOREAに入団した。 2004年9月11日、Spirit MCのトーナメントで総合格闘技に進出。1回戦で奥田正勝に判定勝ちするも、準決勝で敗退した。 2005年11月5日、HERO'S 2005 in SEOULにてクリストフ・ミドゥ・"ザ・フェニックス"と対戦、レフェリーストップによるTKO負け。 2006年4月29日、MARS韓国大会「MARS WORLD FIGHTING GP in SEOUL」にてビッグ・ジム・ヨークと対戦し、フロントチョークで一本負け。 2008年8月17日、DEEP初参戦となったDEEP 37でハマーと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。 戦績 [編集] 総合格闘技 戦績 11 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合 4 勝 0 1 3 0 0 1 6 敗 2 4 0 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 × ハマー 1R 3:08 アキレス腱固め DEEP 37 IMPACT 2008年8月17日 - 濱田順平 1R ノーコンテスト(偶発的な肘打ち) MARS 07 "TORNADO RETURNS" 2007年4月15日 × ビッグ・ジム・ヨーク 1R 1:56 フロントチョーク MARS WORLD FIGHTING GP in SEOUL 2006年4月29日 × クリストフ・ミドゥ・"ザ・フェニックス" 1R 0:50 TKO(パウンド) HERO'S 2005 in SEOUL 2005年11月5日 × ソ・チョル フロントチョーク Neo Fight 6 2005年10月3日 × ジヴァニウド・サンターナ 1R 4:00 腕ひしぎ十字固め X-Impact World Championships【決勝】 2005年7月9日 ○ トレゲン・アキルベコフ 1R終了 判定 X-Impact World Championships【準決勝】 2005年7月9日 ○ アロンソ・マウリシオ 1R終了 判定 X-Impact World Championships【準々決勝】 2005年7月9日 ○ リ・カイ 1R サブミッション X-Impact World Championships【1回戦】 2005年7月9日 × ヤン・ジンホ 1R 1:37 TKO Spirit MC 2004 Grand Prix【準決勝】 2004年9月11日 ○ 奥田正勝 2R終了 判定2-1 Spirit MC 2004 Grand Prix【1回戦】 2004年9月11日 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 獲得タイトル [編集] WXF X-Impact World Championships 準優勝(2005年) |
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├─≠ョ─ヵラス ブルドッグ
├─≠ョ─ヵラス 試合スタイルはラフファイトが中心で、急に雄叫びをあげたり、ニヤニヤ笑ったりと異色のレスラーでもあったが、レスリングの上手さには定評があり、試合巧者としても認知されていた。 |
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朴 松男(パク・ソンナム / Pak Song Nam、1943年4月11日[1] - 1984年1月[2])は、大韓民国・慶尚南道出身のプロレスラー(没年は1982年ともされる[3])。
韓国を代表する国際的レスラーであり、パク・ソン(Pak Song)をリングネームに、アメリカ合衆国の主要テリトリーでヒールのメインイベンターとして活躍した。 日本では「韓国の巨人」の異名を持ち、その長身と風貌から「韓国の馬場」とも呼ばれた。また、1976年10月9日、韓国の大邱にてアントニオ猪木がリアルファイトを行った相手としても知られる。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 キャリア初期 1.2 アメリカでの成功 1.3 大邱事件 1.4 キャリア末期 2 得意技 3 獲得タイトル 4 参考文献 4.1 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] キャリア初期 [編集] 1963年、大韓プロレス協会の総帥である張永哲(チャン・ヨンチョル)にスカウトされてプロレスラーとしてデビュー[4]。1964年からは朴成模(パク・スンモー)との巨人タッグで売り出される。同年8月、大木金太郎こと金一(キム・イル)のプロデュースによる日本プロレスとの共催イベント「極東ヘビー級トーナメント」に出場(日本からは芳の里、吉村道明、上田馬之助らが参加)。このトーナメントでは、成模とのコンビで極東ヘビー級タッグ王者に認定された[5]。 1965年11月には韓国版ワールドリーグ戦の「6カ国対抗プロレス選手権」に出場(日本からは大熊元司、トルコ代表としてユセフ・トルコらが参加)。その後、金一が協会内に設立した「金一道場」の一員となり、1966年9月に日本プロレスに留学生として初来日した[6]。 アメリカでの成功 [編集] 1969年の再来日後、金一に連れられてアメリカ遠征に出発。その巨体が注目され、以降は東洋系の大型ヒールとしてアメリカ・マットに定着し、当時のNWAの主要マーケットを転戦。各地の看板タイトルを何度となく獲得し、1970年7月にアマリロでテリー・ファンクからウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を[7]、1973年11月にはロサンゼルスでジョン・トロスからアメリカス・ヘビー級王座を[8]それぞれ奪取している。テキサスでは坂口征二ともタッグチームを結成[3]。1970年から1974年にかけては、ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した[9]。 フロリダ地区ではプレイボーイ・ゲーリー・ハートをマネージャーに、極道ヒール時代のダスティ・ローデスと共闘するが、1974年5月に仲間割れ。ローデスのベビーフェイス転向(アメリカン・ドリーム誕生)の露払い役を務め[10][11]、以降もローデスとは南部ヘビー級王座を巡る抗争を展開した[12]。同時期、3月にアントニオ猪木との試合を終え、WWWF入りする前にフロリダを短期間サーキットしていたストロング小林ともタッグを組んでいる[13]。 また、同年6月にアメリカ遠征を行っていたジャイアント馬場のタッグパートナーにも起用され、6月20日にアマリロでザ・ファンクスのインターナショナル・タッグ王座に挑戦。主戦場のフロリダでも、6月26日にマイアミでローデス&ドン・ムラコ、27日にジャクソンビルでローデス&マイク・グラハムから勝利を飾っている[14]。翌1975年1月には韓国に帰国する途中で日本に立ち寄り、全日本プロレスのシリーズに日本陣営の助っ人として参加した[14]。 大邱事件 [編集] 1976年10月、大韓プロレス協会は同年6月にモハメド・アリとの異種格闘技戦を行ったアントニオ猪木の韓国招聘を計画。その対戦相手として、アメリカで成功を収め韓国のプロレス界を代表するスターとなった朴が選ばれた(なお、朴は同年4月に行われた新日本プロレスの第3回ワールドリーグ戦に韓国代表として参加が予定されていた)。 試合はシングルマッチ2連戦となり、10月9日に大邱で前哨戦を行い、翌10月10日にはソウルで猪木のNWFヘビー級王座に朴が挑戦するタイトルマッチが組まれた。このうち、ノーTVだった9日の大邱での試合は、猪木がプロレスの暗黙の了解を無視してシュートを仕掛け、朴の脊髄に肘を叩き込み、目玉に指を入れるなどの凄惨な結末となった[15]。 当初は、テレビ中継のあるソウルでのタイトルマッチは猪木が勝つ代わりに、大邱での前哨戦は朴に勝ちを譲るという取り決めが交わされていたが、直前になって猪木が負けブックを一方的に拒んだため、結果としてリアルファイトになったとされている[15]。また、猪木は事前の承諾なしにNWFの防衛戦が組まれたことに腹を立てていたという[16]。興奮した朴のセコンド勢が「セメント! セメント!」とリングサイドに陣取って叫ぶなど、殺伐とした雰囲気の中で試合は行われたが、アメリカで真っ当なプロレスリング・ビジネスを続けてきた朴はリアルファイトに気乗りせず、やむなくリングに上がった[17]。 試合はリンチに近いものとなり、レフェリーを務めたミスター高橋は、猪木のフェイスロックで朴は唇を自分の歯で切り、裂けた唇の間から歯が見えたほどだったと述懐している[17]。結果はノーコンテスト[18]。同日深夜、プロモーター金斗満の要請で猪木が朴に謝罪、翌日のNWF戦は通常のプロレスが行われたものの(猪木のリングアウト勝ち)、ここでも勝敗を巡って猪木と主催者側は試合前に険悪な状況となり、テレビの生中継が入っているにもかかわらず、試合開始が1時間近くも遅れるという異常事態を招いた[18]。 キャリア末期 [編集] 猪木戦以降もアメリカ・マットでは第一線で活躍し、1977年まではジム・バーネットの主宰するジョージアのGCWで活動。同年9月にはジ・エクスキューショナー(後のサージェント・スローター)と組み、トミー・リッチ&トニー・アトラスからNWAジョージア・タッグ王座を奪取している[19]。1978年からは古巣のフロリダに戻り、ローデスとの遺恨試合を再開。1979年にはキラー・カーンと大型オリエンタル・コンビを結成し、3月末に行われたトーナメントに優勝してフロリダ地区のUSタッグ王座を獲得した[20][21]。また、同時期に一時的なカムバックを果たしたバディ・ロジャースの対戦相手も務めている[22]。 その後はダラスでデビッド・フォン・エリックやマーク・ルーインと抗争。1980年にはセントラル・ステーツ地区に参戦し、4月17日にタカチホと組んでディック・マードック&ブルドッグ・ボブ・ブラウンからセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取した[23]。 しかし、以降は体調不良に悩まされるようになり、同年に現役を引退して韓国に帰国。糖尿病との闘病生活を続け、1984年1月にソウル市内の病院にて41歳で死去した[2]。 得意技 [編集] クロー・ホールド カラテ・チョップ ダブルアーム・スープレックス ドロップキック フライング・ヘッドシザース グラウンド技や空中技もこなすなど多彩なテクニックの持ち主だったが、アメリカでは、特にキャリア末期の1970年代末からは怪奇派・異能派の東洋人ヒールとして活動していたため(当時の日本の専門誌では「韓国の妖怪」なる異名が付けられた)、技はチョップやクローが中心となった。 獲得タイトル [編集] アマリロ NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回 [7] ダラス NWAテキサス・タッグ王座:2回(w / キム・イル、ジノ・ヘルナンデス) [24] ロサンゼルス NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回 [8] NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ミスター・レスリング) [25] CWF(フロリダ) NWA南部ヘビー級王座:2回 [12] NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回 [26] NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / エリック・ザ・レッド) ※エリックの死去後はミスター・ウガンダをパートナーに起用 [27] NWA USタッグ王座:2回(w / ジョー・ルダック、キラー・カーン) [20] GCW(ジョージア) NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ジ・エクスキューショナー) [19] セントラル・ステーツ NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / タカチホ) [23] 参考文献 [編集] 『完本 1976年のアントニオ猪木』柳澤健・著 / 文春文庫(2009年、文藝春秋) ISBN 4167753650 『THE WRESTLER BEST 1000』(1996年、日本スポーツ出版社) 脚注 [編集] ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P321 ^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P336 ^ a b “Wrestler Profiles: Pak Song”. Online World of Wrestling. 2009年10月5日閲覧。 ^ 『完本 1976年のアントニオ猪木』P278 ^ 『完本 1976年のアントニオ猪木』P284 ^ 『完本 1976年のアントニオ猪木』P309 ^ a b “NWA Western States Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 ^ a b “NWA Americas Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 ^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月1日閲覧。 ^ 『WWE ダスティ・ローデス アメリカン・ドリーム』DVD Disc-1(2006年、ジェネオン・エンタテインメント) ^ 『アメリカン・ドリーム ダスティ・ローデス自伝』P75-81(2008年、エンターブレイン) ISBN 475774157X ^ a b “NWA Southern Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 ^ 『Gスピリッツ Vol.13』P86(2009年、辰巳出版)ISBN 4777807150 ^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P317 ^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P322-323 ^ 『完本 1976年のアントニオ猪木』P470 ^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P326 ^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P327-329 ^ a b “NWA Georgia Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月1日閲覧。 ^ a b “NWA United States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 ^ “Meet the New US Tag Team Champs”. The Archives of Championship Wrestling from Florida. 2009年10月5日閲覧。 ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P18 ^ a b “NWA Central States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 ^ “NWA Texas Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 ^ “NWA Americas Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 ^ “NWA Florida Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 ^ “NWA Florida Tag Team Title tle History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。 |
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ハーキュリーズ・ヘルナンデス(Hercules Hernandez)ことレイ・フェルナンデス(Raymond Fernandez、1956年5月7日 - 2004年3月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身。
ギリシア神話の英雄 "ヘーラクレース" の英語名であるハーキュリーズをリングネームに冠し、その名に違わぬ筋肉隆々のパワーファイターとして活躍した。日本ではヘラクレス・ヘルナンデスの表記で知られている。 目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] 1981年、地元のフロリダ地区でデビュー(1979年にミッドサウス地区で覆面レスラーのミスター・レスリング3号としてデビューしたともされる[1])。1982年にハーキュリーズ・ヘルナンデスのリングネームでカンザスのNWAセントラル・ステーツ地区に入り、ハーリー・レイスやマイク・ジョージらベテランと対戦してキャリアを積む。 1983年1月にはヘラクレス・ヘルナンデス名義で全日本プロレスに初来日し、大器の片鱗を見せた[2]。以降、ノースカロライナのミッドアトランティック地区やテキサスのサンアントニオ地区、ビル・ワット主宰のMSWAなど南部エリアを転戦してリングネームをハーキュリーズに改め、1985年にWWF(現・WWE)と契約。 WWFでは初期はフレッド・ブラッシー、後にボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、極太の鎖を首に巻きつけた大型ヒールとして活躍。同じ筋肉マン系のビリー・ジャック・ヘインズやアルティメット・ウォリアーと抗争し、1986年11月29日のサタデー・ナイト・メイン・イベントではハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。 1988年からベビーフェイスに転向しテッド・デビアスらと抗争するが、1990年に再びヒールターン。スリックをマネージャーに、ポール・ローマとのタッグチーム "パワー&グローリー" でタッグ戦線に進出する。怪力のハーキュリーズ(パワー)とスピーディーなローマ(グローリー)という、それぞれの持ち味を活かしたコンビネーション・プレイを武器に、リージョン・オブ・ドゥーム(ホーク&アニマル)、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)、ザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)らと激闘を繰り広げた。1991年6月には当時WWFと提携していたSWSにローマとのコンビで来日している。 1992年にWCWへ移籍し、覆面レスラーのスーパー・インベーダーに変身する。同年9月2日のクラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンズではジェイク・ロバーツ、リック・ルード、ベイダーと組み、スティング、ニキタ・コロフ、スタイナー・ブラザーズ(リック&スコット)のベビーフェイス勢とイリミネーション・マッチで対戦した。 1993年、新日本プロレスに初参戦。当時の新日本の外国人エースだったスコット・ノートンと "ジュラシック・パワーズ" を結成し、同年8月5日にヘルレイザーズ(ホーク&パワー・ウォリアー)からIWGPタッグ王座を奪取した[3]。新日本には翌1994年まで計9回、ノートンのパートナーとして来日している。 その後はイリノイ州シカゴのAWFなどインディー団体を転戦し、1999年に引退してトラック・ドライバーに転身した。2004年3月6日、心臓発作のためフロリダ州タンパの自宅で死去[1][4][5]。47歳没。 得意技 [編集] フルネルソン アルゼンチン・バックブリーカー ベアハッグ エルボー・ドロップ スーパープレックス(パワー&グローリー時代は、この技に続きポール・ローマがダイビング・ボディ・プレスを放つ合体攻撃 "パワー・プレックス" をフィニッシュとしていた) 獲得タイトル [編集] シングルタイトル NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回 NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回 NWA南部ヘビー級王座:1回 IWFカンナム王座:1回 IAWヘビー級王座:1回 タッグタイトル NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:2回(w / デューイ・ロバートソン) ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / テッド・デビアス) IWGPタッグ王座:1回(w / スコット・ノートン) IAWタッグ王座:1回(w / ポール・ローマ) |
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