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【2025/04/30 12:19 】 |
朴松男
朴 松男(パク・ソンナム / Pak Song Nam、1943年4月11日[1] - 1984年1月[2])は、大韓民国・慶尚南道出身のプロレスラー(没年は1982年ともされる[3])。
韓国を代表する国際的レスラーであり、パク・ソン(Pak Song)をリングネームに、アメリカ合衆国の主要テリトリーでヒールのメインイベンターとして活躍した。
日本では「韓国の巨人」の異名を持ち、その長身と風貌から「韓国の馬場」とも呼ばれた。また、1976年10月9日、韓国の大邱にてアントニオ猪木がリアルファイトを行った相手としても知られる。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 キャリア初期
1.2 アメリカでの成功
1.3 大邱事件
1.4 キャリア末期
2 得意技
3 獲得タイトル
4 参考文献
4.1 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

キャリア初期 [編集]
1963年、大韓プロレス協会の総帥である張永哲(チャン・ヨンチョル)にスカウトされてプロレスラーとしてデビュー[4]。1964年からは朴成模(パク・スンモー)との巨人タッグで売り出される。同年8月、大木金太郎こと金一(キム・イル)のプロデュースによる日本プロレスとの共催イベント「極東ヘビー級トーナメント」に出場(日本からは芳の里、吉村道明、上田馬之助らが参加)。このトーナメントでは、成模とのコンビで極東ヘビー級タッグ王者に認定された[5]。
1965年11月には韓国版ワールドリーグ戦の「6カ国対抗プロレス選手権」に出場(日本からは大熊元司、トルコ代表としてユセフ・トルコらが参加)。その後、金一が協会内に設立した「金一道場」の一員となり、1966年9月に日本プロレスに留学生として初来日した[6]。
アメリカでの成功 [編集]
1969年の再来日後、金一に連れられてアメリカ遠征に出発。その巨体が注目され、以降は東洋系の大型ヒールとしてアメリカ・マットに定着し、当時のNWAの主要マーケットを転戦。各地の看板タイトルを何度となく獲得し、1970年7月にアマリロでテリー・ファンクからウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を[7]、1973年11月にはロサンゼルスでジョン・トロスからアメリカス・ヘビー級王座を[8]それぞれ奪取している。テキサスでは坂口征二ともタッグチームを結成[3]。1970年から1974年にかけては、ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した[9]。
フロリダ地区ではプレイボーイ・ゲーリー・ハートをマネージャーに、極道ヒール時代のダスティ・ローデスと共闘するが、1974年5月に仲間割れ。ローデスのベビーフェイス転向(アメリカン・ドリーム誕生)の露払い役を務め[10][11]、以降もローデスとは南部ヘビー級王座を巡る抗争を展開した[12]。同時期、3月にアントニオ猪木との試合を終え、WWWF入りする前にフロリダを短期間サーキットしていたストロング小林ともタッグを組んでいる[13]。
また、同年6月にアメリカ遠征を行っていたジャイアント馬場のタッグパートナーにも起用され、6月20日にアマリロでザ・ファンクスのインターナショナル・タッグ王座に挑戦。主戦場のフロリダでも、6月26日にマイアミでローデス&ドン・ムラコ、27日にジャクソンビルでローデス&マイク・グラハムから勝利を飾っている[14]。翌1975年1月には韓国に帰国する途中で日本に立ち寄り、全日本プロレスのシリーズに日本陣営の助っ人として参加した[14]。
大邱事件 [編集]
1976年10月、大韓プロレス協会は同年6月にモハメド・アリとの異種格闘技戦を行ったアントニオ猪木の韓国招聘を計画。その対戦相手として、アメリカで成功を収め韓国のプロレス界を代表するスターとなった朴が選ばれた(なお、朴は同年4月に行われた新日本プロレスの第3回ワールドリーグ戦に韓国代表として参加が予定されていた)。
試合はシングルマッチ2連戦となり、10月9日に大邱で前哨戦を行い、翌10月10日にはソウルで猪木のNWFヘビー級王座に朴が挑戦するタイトルマッチが組まれた。このうち、ノーTVだった9日の大邱での試合は、猪木がプロレスの暗黙の了解を無視してシュートを仕掛け、朴の脊髄に肘を叩き込み、目玉に指を入れるなどの凄惨な結末となった[15]。
当初は、テレビ中継のあるソウルでのタイトルマッチは猪木が勝つ代わりに、大邱での前哨戦は朴に勝ちを譲るという取り決めが交わされていたが、直前になって猪木が負けブックを一方的に拒んだため、結果としてリアルファイトになったとされている[15]。また、猪木は事前の承諾なしにNWFの防衛戦が組まれたことに腹を立てていたという[16]。興奮した朴のセコンド勢が「セメント! セメント!」とリングサイドに陣取って叫ぶなど、殺伐とした雰囲気の中で試合は行われたが、アメリカで真っ当なプロレスリング・ビジネスを続けてきた朴はリアルファイトに気乗りせず、やむなくリングに上がった[17]。
試合はリンチに近いものとなり、レフェリーを務めたミスター高橋は、猪木のフェイスロックで朴は唇を自分の歯で切り、裂けた唇の間から歯が見えたほどだったと述懐している[17]。結果はノーコンテスト[18]。同日深夜、プロモーター金斗満の要請で猪木が朴に謝罪、翌日のNWF戦は通常のプロレスが行われたものの(猪木のリングアウト勝ち)、ここでも勝敗を巡って猪木と主催者側は試合前に険悪な状況となり、テレビの生中継が入っているにもかかわらず、試合開始が1時間近くも遅れるという異常事態を招いた[18]。
キャリア末期 [編集]
猪木戦以降もアメリカ・マットでは第一線で活躍し、1977年まではジム・バーネットの主宰するジョージアのGCWで活動。同年9月にはジ・エクスキューショナー(後のサージェント・スローター)と組み、トミー・リッチ&トニー・アトラスからNWAジョージア・タッグ王座を奪取している[19]。1978年からは古巣のフロリダに戻り、ローデスとの遺恨試合を再開。1979年にはキラー・カーンと大型オリエンタル・コンビを結成し、3月末に行われたトーナメントに優勝してフロリダ地区のUSタッグ王座を獲得した[20][21]。また、同時期に一時的なカムバックを果たしたバディ・ロジャースの対戦相手も務めている[22]。
その後はダラスでデビッド・フォン・エリックやマーク・ルーインと抗争。1980年にはセントラル・ステーツ地区に参戦し、4月17日にタカチホと組んでディック・マードック&ブルドッグ・ボブ・ブラウンからセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取した[23]。
しかし、以降は体調不良に悩まされるようになり、同年に現役を引退して韓国に帰国。糖尿病との闘病生活を続け、1984年1月にソウル市内の病院にて41歳で死去した[2]。
得意技 [編集]

クロー・ホールド
カラテ・チョップ
ダブルアーム・スープレックス
ドロップキック
フライング・ヘッドシザース
グラウンド技や空中技もこなすなど多彩なテクニックの持ち主だったが、アメリカでは、特にキャリア末期の1970年代末からは怪奇派・異能派の東洋人ヒールとして活動していたため(当時の日本の専門誌では「韓国の妖怪」なる異名が付けられた)、技はチョップやクローが中心となった。
獲得タイトル [編集]

アマリロ
NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回 [7]
ダラス
NWAテキサス・タッグ王座:2回(w / キム・イル、ジノ・ヘルナンデス) [24]
ロサンゼルス
NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回 [8]
NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ミスター・レスリング) [25]
CWF(フロリダ)
NWA南部ヘビー級王座:2回 [12]
NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回 [26]
NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / エリック・ザ・レッド) ※エリックの死去後はミスター・ウガンダをパートナーに起用 [27]
NWA USタッグ王座:2回(w / ジョー・ルダック、キラー・カーン) [20]
GCW(ジョージア)
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ジ・エクスキューショナー) [19]
セントラル・ステーツ
NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / タカチホ) [23]
参考文献 [編集]

『完本 1976年のアントニオ猪木』柳澤健・著 / 文春文庫(2009年、文藝春秋) ISBN 4167753650
『THE WRESTLER BEST 1000』(1996年、日本スポーツ出版社)
脚注 [編集]
^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P321
^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P336
^ a b “Wrestler Profiles: Pak Song”. Online World of Wrestling. 2009年10月5日閲覧。
^ 『完本 1976年のアントニオ猪木』P278
^ 『完本 1976年のアントニオ猪木』P284
^ 『完本 1976年のアントニオ猪木』P309
^ a b “NWA Western States Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
^ a b “NWA Americas Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月1日閲覧。
^ 『WWE ダスティ・ローデス アメリカン・ドリーム』DVD Disc-1(2006年、ジェネオン・エンタテインメント)
^ 『アメリカン・ドリーム ダスティ・ローデス自伝』P75-81(2008年、エンターブレイン) ISBN 475774157X
^ a b “NWA Southern Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
^ 『Gスピリッツ Vol.13』P86(2009年、辰巳出版)ISBN 4777807150
^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P317
^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P322-323
^ 『完本 1976年のアントニオ猪木』P470
^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P326
^ a b 『完本 1976年のアントニオ猪木』P327-329
^ a b “NWA Georgia Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月1日閲覧。
^ a b “NWA United States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
^ “Meet the New US Tag Team Champs”. The Archives of Championship Wrestling from Florida. 2009年10月5日閲覧。
^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P18
^ a b “NWA Central States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
^ “NWA Texas Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
^ “NWA Americas Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
^ “NWA Florida Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
^ “NWA Florida Tag Team Title tle History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
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【2011/01/06 20:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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